Monday, January 26, 2015

少しいいホテル

石垣島 沖縄


私のモットーは、

一人で旅行に行くときは格安ホテル・ホステルで宿泊費を浮かして、美味しいものを食べたり素敵な物を買ったりする 

ことだったのだが…


少しいいホテル(空間)で、静かに過ごす 

のが気になり始めた。


さっそく、出国前に泊まるホテルを、 少し良い感じ のホテルにしてみた。
楽天でポイントも貯まっちゃう。

嬉しい
ワクワクだ。


***

「マミちゃん、感じてて!そしたらベストなタイミングですべてが決まるから!」

と、ゆきさんに言われたのは、いつ出発しようかを悩んでいた時だった。

そうか〜…(ドキドキ)
だといいなぁ〜と思っていたのは、去年の11月頃かなぁ。


そして、徐々に決まり始めた12月中旬、瞬く間に決まっていったのは1月から。
そのことは本当だった。


ありがとう。

Sunday, January 25, 2015

1か月後には

ねこ先輩についていく(宗像大社 福岡)

1か月後には、私はカナダでの最初の1週間を終えて、事前に予約をしていたホステルをチェックアウトする。
そして次の場所へと向かう。

私はどんなふうに想いながら、どんなミチしるべを見つけるのか楽しみである。


見つからない時はじっとしていよう。


***
未来を想うと不思議な感覚

本当に行ってるのよねぇ?という今の自分の中の感覚と、
数週間後にはそこにいるんだよ。という未来の自分の感覚と

とにかく不思議になって興奮するな(笑)



最初の目的地は、バンクーバー
日本人がおおくって、世界有数の住みやすい都市というイメージも強いからか、
カナダ人の知り合いには「英語を鍛えたいならバンクーバーは適していないと思うんだけれど…」と言われた。


目的が定まっていないうちは、「どこがいいかなぁ…」とカルガリーやモントリオール… やっぱりトロントか…
とか、色々迷ってたんだけど、
結局のところ、自分の中ではやっぱりバンクーバーが惹かれる場所だった。

バンクーバーの都市、というよりもそこら辺の地域に惹かれて行くんだと思う。
自然があるし、先住民文化にも惹かれる。



従って行きます。
ありがとう。

Monday, January 19, 2015

点と線とカタチと愛

ご主人を待ちわびていた


いろいろあったこれまでの経験の中で
たくさんの嬉しいことも勿論あったけれど、苦しいことも多々あった。
その時には、苦しいなぁ… とかいやだなぁ… とかいろいろと感じていたわけだけれども、

きっと意味があるはずだ 
この(自分にとっての)試練は、超えれるからやってきたのだ

と、言い聞かせて、自らを励ましてやってきた。



カナダ行きが決まってしばらくした時に、カナダに行くことになったとS先生に報告したら、「いいですね!!!!!!!!カナダは私も思い出深い場所です。素晴らしい出会いがあるとおもいます!」と言われ、田中千恵さん著の『ウィ・ラ・モラ』という本を勧められた。
田中知恵さんご自身がカナダ・バンクーバー島周辺で体験したことを綴った本で、彼女の表現や写真が好きだった。美しく、静かで、心地が良い。
彼女が出会い、旅のパートナーとなったウルフィーという犬、かわいい。ウルフィーの描写の部分を読むとときめく。

読み進めるうちに、田中千恵さんの旅は明らかに見えない糸のようなものに引かれて‥ミチにそって進んでいっているなぁと感じられ始めた。
それは、何となく覚えのある感覚だった。


突然、「私も書いてみる」と思い立った。ペンで書くのは続かないしブログがいいなと感じられた。そして、このブログ(イヌクシュク)を作成した。

題名もすんなりと決まった。
『イヌクシュク』っという名前を付けたかった。
イヌクシュク、北極圏の先住民族によって作られた、人型の積石(ケトン)で、道しるべの役割をしているとされているものなんだけど
これが、自分の中にふと浮かんだ。
道しるべ っという意味があることを知って私はますます惹かれた。


「カナダでの体験も、残しておきたいしな〜。」とブログを作成して、手始めに書き始めたのは自分がカナダ(海外)に行くことになった経緯だった。
思いつくままに夢中で書いていた。
子どもの時のこと、大人になるまで、なってから、思いつくままにすべて書こうと思ったし、今まではどう表現するべきかわからなかったこともスラスラと書けた。


読み返してみて、いろいろな現象が点在しているように見えて実は、全てがつながってたんだなと感じられた。
点が線となって… 線と線は結びついて…

私もまた、見えない糸に引っ張られてここまで来たのかな と。
苦しい体験としても、その裏に隠されている真実は、ある形になるための一つの要素だ と。



そうして、大きな愛が感じられた。

すべてのことに意味があるはずだからと頭で信じてきたことが、半ばそうじゃなくっちゃやってられないんだけどなと願っていたことが(笑)
今度は実感として、体感として、自身の中でスススっと感じられた。


あぁそうなのか
そういうふうにできているのか と。


愛って大きいし深い。

宇宙はすごいんだぜ。



【Amazonへ飛べますね】

Thursday, January 15, 2015

おじいちゃんが瞬きをした

河内のほとり、大木とわたし(河内貯水池 北九州市)



中学の頃に、父方の祖父が亡くなった。


高校受験前の夏、夏期講習に精を出していた頃だった。私たち家族はお葬式のために鹿児島へ向かった。

鹿児島に着くと、祖父母家へ向かう途中豪雨にあった。前が見えないほどの土砂降り雨で、父も母も「誰か連れて行こうとしとるかな。」などと言っていた。
運転していない私たちも怖かったのだから、運転者の父親はよほど恐ろしかったと思う。

気をつけてきてね

親戚一同でそんな声を掛け合い、私たちは無事に集まることができた。

祖父母家に着くと、病院から家に帰ってきていたおじいちゃんが横たわっていた。静かに。いつもと違うのは、起きることはないことと、鼻に詰め物があることだった。

真夏の暑い日、初めての体験だった。

お通夜前、みんなが早朝あるいは夜に出て午前中に祖父母家に到着というスケジュールだったので疲れていたんだろう。
そして、よほど何もすることがなかったのか、おじいちゃんを囲んで10人くらいで昼寝をした。叔母さんはおじいちゃんのすぐ横で寝ていた。

ふと目が覚めると、おじいちゃんの身体の周りにスヤスヤ眠るみんなが見えた。わたしは笑った。
おじいちゃんが起きることないなんて信じられないなと思った。


鹿児島のおじいちゃんと過ごした記憶はあまりない。あぐらをかくおじいちゃんの膝に座った覚えがあるくらいだった。


それは、葬儀のときだった。
 大声量のじいちゃん僧侶が、叫ぶように歌うようにお経をあげていた。

そんな大音量お経にもかかわらず、私は居眠りをし、椅子ごと倒れそうになった。
横にいた兄は私の足を蹴った。
その後も眠さは止まらない。

ようやく(苦笑) 献花の時間になって、棺桶の中に横たわるおじいちゃんの周りをお花でいっぱいにした。
私はひとりでおじいちゃんの頭らへんに立ってお花を入れていた。さっきまで寝てたくせに、涙を流すお調子者だった(笑) おじいちゃんが死んじゃったのか…しみじみ思っていたら、突然おじいちゃんが瞬きをした (!)


絶句し、涙も止まった。


横で花をあげていたおばさんたちが「いま瞬きしたネェ…」と泣きながら言っていた。


本当に瞬きしたというよりも、おじいちゃんの身体の上で、半透明のおじいちゃんが瞬きをした感じだった。


でも、間違いなく。


おじいちゃんは、身体を去ったらしかった。
魂が旅だったんだ  と、私は現象を理解していた。

もしかしたら、おじいちゃんは身体はカラダということを見せてくれたのかもしれない。おじいちゃんの魂がふわりと体を離れて、次の旅へと向かっていくところに立ち会わせてくれたのかもしれないと、たった今感じられる。

わたしは、そのことをステキな心霊体験として位置付けた。


長らくその話を家族にすることはなかったんだけど、最近になって実はね…と家族に話したら


は?!


と父も母も本当に驚いて笑っていた。
「なんで早く言わんかったとね〜」

むしろ怒られてしまった(笑)

Wednesday, January 14, 2015

カナダへ行くと決まった後のはなし 2

夜の写真展 at Ikki(八幡東区 福岡)

普段、 Cafe Ikki はジャズのセッションやライブ、バンドのライブなどが行われてて、音楽に特化しているところなんだけど、作品などの展示会をするのは私が初めてだったんだそう。
マスターは写真展に向けて、お店を展示会仕様にしてくれた。


展示会は4ヶ月間ぶっ続けで行われた。
内容は、サンフランシスコの旅で撮ったものにした。
月ごとに内容を変えて、1回5枚程度の出品にした。

いつもは生の音楽があふれるこの場所が、写真展の時は静かで独特な空間となった。

いつもと違う感じがウケたのか、写真が好きな人は意外に多いのか、毎月来てくれるお客さんもいた。
主張することなどには違和感があるので、私はタイトルなどは一切つけなかった。
撮った日や、場所くらいは示しても良かったのかもしれないけど、その時の私の中では、そういう情報の一切を与えたくなかった。
どこで撮ったのかとか、いつ撮ったかなんていうことはどうでも良かった。
見た人が感じるように感じて、思うように思えば良いとおもった。

丸投げ状態か(笑)

展示会に来たお客さんにはあまり自分からは話しかけず、自由にしてもらった。

感じられたことを教えてくれるのは嬉しく、私自身のそれに応えたり、感想も話した。
もちろん、何を言われずともよかった。

たくさんお話ししてくれる方もいたし、写真の仕事をしている人も来て、感想を言ってくれた。また、あるお客さんは「これ見て〜!」とご自身が携帯で撮った写真を私に見せてくれて、ご自身を表現されていた。
その表現方法は様々で、多少の強弱があるものの冷静に聞いていると、皆さんが作品を楽しんでいるのが感じられた。


ハッとした。


みなさんが、私の作品を通してそれぞれに感じ、それぞれにご自身を表現していた。
作品が良いとか悪いとかはどうでもよく、その場に来た皆さんがご自身の表現をされていた。
そんな現象が映しだされた時に、愛おしく、ありがたかった。


「皆がね、ご自身の最高を表現しているんだよ!」と、サンフランシスコでよく聞いていた。

(そうなのか〜...)とぼんやり頷いていたけれど、頭で考えてなんとなくわかったりもしていたけど、体験として、現象として、明確にとらえたことはなかった。

しかも面白いのは、今こうやってブログにまとめている途中に現象と隠された意味が結びついている。




いま、涙があがっている。温かい気持ちに包まれている。
静かな興奮を味わっている。

Tuesday, January 13, 2015

カナダへ行くと決まった後のはなし 1

Beautiful展 at 旧門司税関(門司港 福岡)

カナダに行くことが決まるずっと前から決まっていたことがあった。
カメラ部のみんなでの写真のグループ展だった。

『門司港トイカメラ部グループ展 Beautiful』を、門司港レトロの旧門司税関で行った。
Beautifulというタイトルに基づいて、各章を各人が構成した。

初めての写真展... しかも立派な会場。
高校時代は写真部に所属していて、年に一度の文化祭では写真展とポートレート写真会が開かれたけど、『やっつけ』というのが適当なほどテキトーだった。

その後も写真は好きで、趣味程度の撮影はちょこちょことしていた。
中で白黒写真が好きだった。
雑誌だったか何だったか、白黒写真を見た時にココロにグググッと響いて、これだ!っと感じたのだ。

カメラも数台持っていたし、 あ... っという瞬間を捉えるのが好きだった。
逆に撮らなきゃ撮らなきゃっと思うと、撮れない性格だ。
1日に1本フィルムを使うこともあるか... ないか。
あまりバシバシと撮るタイプじゃないとおもう。


写真展のための作品を撮りにいったりもしたけど、結局出した作品は今まで撮り貯めていた物の中から選んだものだった。
やはり、意識していないほうが良い物ができるようだった。


緊張の写真展は、てんやわんやで始まると瞬く間に終わってしまった。
「次の写真展に向けてまた皆で頑張りましょう!」の言葉が実現されることなく、
部長の都合により、部は解散されてしまった。

女子で集まることは今でも多く、やはり彼女たちが作るべき友達だったようだった。


しかしその後も『表現をしなさい!』と言われているかのように、多くの表現、そしてそれを人に見せる機会が与えられた。

もともとは、人前に出ることも自分の色を他人に見せることも苦手で、人に主張する っということがうまく出来ないタチだった。
大学時代には学会に多く行ったけれど、学会での発表は何よりも苦痛だった。会場では、みんながギラギラと目を光らせる狼みたいで、私は羊の気分を味わっていた。

昔から、『練習は好きだけど本番は嫌い』という性格だった。
競争が大嫌いなのだ。

ところが今度は、アート分野での表現をする機会を与えられた。


写真展も終わって ふぅ と一息ついていた頃、行きつけのジャズバーのマスターと会った。
そのマスター、先にやった写真展に行けなかったらしくて「うちの店で展示会やってよ。月に2日、7月から4ヶ月間どう?」と言われた。

私は、引き受けることにした。



ゆきさんとの日々

カストロ地区、ボーダーのない場所(San Francisco, USA)

カナダへ行くと決める前のはなし 3 でも示した通り、
ゆきさんと知り合ってから数年の時が経って、私はゆきさんと実際に肉体的にも会うこととなった。
その連絡をするときは、とにかくドキドキしていたが、同時にワクワクしていた。

どうなるんだろう! 想像がつかなかった。

その頃までには、ゆきさんとはブログだけではなくってFacebookでもつながっていたとおもう。なんだか、今考えると… ストーカー(!)みたいだけど、ゆきさんをFacebookで見つけて友達申請までしてしまったのだから、私って意外に大胆だな。

当時は、まだFacebookが今ほど日本で浸透していない時期だった。


ゆきさんに連絡をした時、メールで「是非会いましょう!とても楽しみ〜!」っというメールが来たことを覚えている。
私のココロは、告白した後にOKをもらった少年みたいだった。

何度かゆきさんと連絡をとり、待ち合わせ場所を決めた。私が着いた日の夜、私が泊まるユースホステルのロビーで待ち合わせることになった。


緊張に包まれて一人出国し、初の10時間以上のフライトで、サンフランシスコに着いた頃はかなり疲れていた。必死でホステルまでいけば「チェックインは14時からだよ」と、1時間以上待たなければいけなかった。

なんとか時間をつぶしながら、最終的には公園でただただボーっとしていた。
疲れと眠気がひどかった。
「今夜ゆきさんに会えるかなぁ…」と心配になったほどだった。

チェックイン後、通された部屋のベッドに横になってすぐ眠りにつき、起きると3時間くらい経っていた。驚いたのは、信じられないくらいに元気になっていたこと。
待ち合わせの時刻にもゆっくり間に合って、私は寝ぼけまなこでロビーに座っていた。そしたら一人の女の人がガラス越しに笑顔で私に手を振った。

ゆきさんだった。

初めて会ったけれど、初めての感じがなかった。「はじめまして」というのも何だか不思議だった。ゆきさんの笑顔はとびきりだった。

「おもった通り、綺麗で軽い感じの人だ!」

と言われて、私は照れた。

モール地下のフードコートでその日は夕食をとった。
私は、実は「ゆきさんって本当に居るのかなって思っていたんだけど、居ました。」っということを伝えた。
ゆきさんは アハハ!! っと笑っていた。

ゆきさんと話していると、小さな女の子と話しているみたいだった。
「なんか、ゆきさんって小さな女の子みたい。小さな女の子とおしゃべりしてる感じです。」っと言うと、再び可愛く笑っていた。

その日から毎晩のようにゆきさんに会って、一緒にごはんを食べた。
ある日は、朝6時くらいから朝日を見ようと一緒にコイトタワーという小高い場所へと向かい、その日は一日中一緒の時間を過ごした。


色んな話をしたと思う。
魂の話もたくさんして、ゆきさんの経験も直に聞いて、そして自分の話もした。
自分自身の話をして行くうちに、 あっ... と『気付く』ことも多かった。
あっ...! と、ピコーンと電球が光るようなあの感覚だった。

いじめを体験している時も、大学を辞めてヘトヘトになっているときも、
私の傍にいつも居てくれた存在、それが魂だったことに気づいた。
そして、大切なものを教えてくれていたことに気づいた。
ここではない何処かを想う自分にも理由があったことを知った。

涙が流れてきた


昼ごろまではホステルでダラダラして、日中は一人ぶらぶらと歩きまわって、夜は一緒にお店を見て回ったり、ご飯を食べたりして時間をシェアするというのがサンフランシスコでの日課だった。

そしてもう一つの日課が、毎晩お別れのときにハグ(チャージ)をすることだった。
文化的なこともあってか、最初は結構照れてたのだけれど、次第に毎日しないと気がすまなくなってる自分に気づいた(大笑)。

私は、この旅はゆきさんに会うための旅だ っと確信した。
もちろん、私はそれを伝えた。
ゆきさんのお母さんも、一人でゆきさんにサンフランまで会いに来たらしく、二人目だ〜!っと笑っていた。



私たちは、おソロいのTOMSの靴を買った。

そして、もしかしたらそれは最後の夜だったかもしれないけど、おソロイの靴をお互い履いてお出かけした。足どりは軽やかで、ステップを踏んでいるようだった。
歩いたのはカストロ地区という有名なゲイタウンで、虹の旗が印象的なところだった。花がいたるところに飾られていて、とてもきれいな、とてもかわいい街 っという印象だった。

「きっと、手をつないでたら、皆わたしたちのこと同性愛者と思うだろうねぇ!おソロイの靴だもん!」っとキャッキャッしながら歩いた。


ボーダー(境界)を感じない場所だった。
鳥と人間のボーダーすら感じられなかった。私たちがスズメのすぐ近くを通っても彼らはゆったりとしていた。自然だと感じられた。



ゆきさんとは、その夜ビッグハグをして解散した。
また会うならば、次はどこでかなぁ。また会う気がするなぁ。 と話しながら。

ゆきさんとの出会い

ゆきさんとTOMSおそろ (San Francisco, USA)

ゆきさんに出会ったのは、私が外国人との恋愛を経験し始めた時だった。
今から5年以上前のことかなぁ。
国際恋愛とか国際結婚に興味があって、インターネット上で検索をし、世の国際カップルがどんな感じなのか色んなブログを見ていた。
そして、見つけたのがゆきさんの サンフランシスコで生きるゆき というブログだった。


そのブログには、ゆきさんはアメリカ人の旦那さんと暮らしていて、その彼との出会いや結婚までの過程や、結婚生活が綴られていた。
ゆきさんの口調やお話は面白くてかわいくて、すぐにブックマークし、そのブログの読者になった。


ある時、久々にブログを訪れてみたら、ゆきさんは旦那さんとは離れて暮らすことを選び、そのことが綴られていた。
その後のブログの内容は、感じが変わって、ゆきさん自身のことが書かれていた。
ゆきさんは、自分を100%近くまで出せるようになって表現が変わったということを言っていた。
それは、一般的な言葉を使えば、スピリチュアルな内容、今までは知らなかったゆきさんのことがたくさん書かれていた。

元々、私自身がスピリチュアリティに関して非常に興味が強く、けれども当時の私はパワースポットとかの、目に見えるもの(レピュテーションなども含み)に対しての興味のほうが強かった。
霊感は基本的にはないが、ある種の似たような感覚は持っていた。
実際に霊界との繋がりを感じた体験もあった。
ところが、どれもが怖い経験ではなく、メッセージ性のある体験だった。
一度、どこにも行けなくなってしまった霊が来たことがあったが、彼には「私の方では何も出来ない」というウマを伝えて、家を出て行ってもらった。



ゆきさんのブログの中で特段意識を引いたのが 魂 や 愛 のはなしだった。
そして最も難解だったのが、 宇宙(の法則) のことだった。

自分を愛すること、自分を信じること、常に正直にあること。

突然過ぎたのか私の体はすぐには受付けず、ゆきさんが体験することを半信半疑で読んでいた〜(笑)
それでも読み続けていたから、ココロはそこに向いていたのかも(笑)

ある日、グッと心が惹かれる記事と出会った。

心 と 体 を離して客観的に現象を捉えることで、悩みなどの苦悩から開放されるよ〜 っという感じのこと… っといって当たってるかな…(苦笑)
大切なことはいつだってその裏に隠されているんだ〜 っということも。


なんだろうこれ、なんか全然わからないけどものすごく興味があるし、ココロとカラダって一体じゃないのかな…
でもそんなことができるなら、すごい! 

そうでありたい!! と
もっと知りたい!!! と。

宇宙のこと、魂のこと、本当の愛のこと。

私はゆきさんに素直なきもち(感想)をメールした。


そうして、私とゆきさんの関係は始まった。



多分その頃から、私はいつかゆきさんに会いたいと思っていた。

もしかしたら、 会う と決めていたのかなぁ

カナダへ行くと決める前のはなし 4

関門海峡 (門司港レトロ 福岡)


少しずつ、行動する力が湧いてきたところで年が明け、
また新しい年が始まった。


当時はまだ通っていた英会話教室の新年会で、イギリス人講師におキマリの 『New year's resolution (新年の抱負)』 を聞かれた。

こういう質問が大好きなイギリス人講師と、嫌いなわたし(笑)
当時の私は、まだ将来とかを考えるのが億劫というか、話していると涙も出てくるし、あまり話題にしたくないものだった。ピンともこないし、話したとしてもその反応を見るのが嫌だった。
あぁ…… という反応が見えてしまい、まだまだ引け目を感じるのだった。 しかも励まされるのがまた辛かった。

けれども、その場の空気も読まなきゃだし… とにかく答えるために考えた。
ふと浮かぶのは 海外 のこと。 サンフランシスコのことがぼんやり浮かんだし、テレビで見たクロアチアの電車旅のことも浮かんでいた。
海外欲が高まっていた。 

「はい、次はマミの番。 新年の抱負はなに?」

と聞かれて、

「そうだなぁ… 海外旅行かな。一度は行きたいと思ってる。」 といった。

イギリス人講師は いいね! っと勢いよく言い、続けて、 「何週間? 何か月? 1年?! ワーキングホリデー?!」 と言ってきた。
「… わからないけど… 何週間かかな…」 と答えると、 「長くいくべきだよ! 長く旅をするべきだ。」 と彼は言った。


その時、私には付き合ってる人がいたのであまり長い間の旅は考えていなかったけど、彼とそれほどうまくいってるわけでもなかったので、このイギリス人講師との会話は自分の中に残った。


彼との別れを意識し始めた頃だと思う。私は新年会で、イギリス人講師に 「ワーキングホリデー?」と言われたことを思い出していた。その時ちょうど30歳で、あと3、4ヶ月で31歳になるところだった。「ワーキングホリデー? ワーキングホリデー?」 頭をぐるぐる回っていく言葉(笑)

「あー、間に合うかもな。」っと想いは強まった。
インターネットですぐにワーキングホリデーについて調べてみた。 

カナダを選択することは調べる前から決まっていた。
興味の度合いも高かったし、申請料も一番リーズナブルだった。
調べてみると、ビザ発給の許可レターは1ヶ月〜2ヶ月ほどでとれるらしく、31歳になるまでには間に合いそうだということがわかった。


彼との関係が変になっていく中で、私はビザ発給許可への申し込みを開始した。


そんな中で、彼との関係に幕を下ろそうと決心した出来事があった。
彼との付き合いは、10ヶ月かそこら辺だったと思う。
付き合いに『無理』のある関係だったのもあって、体に異常が起こってしまった。
生理が3週間ほど遅れたのだった。
付き合っている人があるだけに、ちょっと平常心でいることが難しかった。


すぐさま、私が自分のことをないがしろにしていた 『つけ』 が回ってきたんだ っと深く反省した。
その現象は他にも、私に 彼の『態度や真実』 を見せてくれた。
私も怒っていたが、彼は 「僕は悪くない!」 と言って、私に会おうともせず、とにかく逃げていた(少なくとも向き合ってはくれなかった)し、私に強い怒りの言葉をぶつけた(お互い様なのだけど、当時の私はとにかく謝れ!っと思っていた 笑)。

とにかく話し合っても、その後生理が来ても、彼の様子や態度には落胆するばかりだった。
私は彼の姿を受け止め、彼との関係から降りることを決めた。


別れた後か、別れる前か、そんな違いはもはやどうでも良いくらいのちょうど境目にいた頃、カナダ政府からビザ発給許可レターが送られてきた。

やった!!!!!!!


申し込みを始めてから1ヶ月経たないくらいで、許可が降りたのだった。
私は何度も何度もその文面をくりかえし読んで、訳した。

カナダに行くのか…

呆然と、新しく現れたまだ暗闇に隠れている未来を見ていた。


カナダへ行くと決める前のはなし 3

カズピがとってくれた写真。 跳ねたら、浮いた。 (霧島神宮 鹿児島)

疲れ切った一年をとにかく、あまり動かずに過ごした後、
年が明けてから、 どっかいこうかな って気持ちになった。


たしか カズピ(再び登場 笑) と一緒に飲みに行ったとき、海外旅行に行きたいけどどこにいこうかなぁ~ なんて話をしていて、その時に カナダ か アメリカ か… ロシアもいいなぁ… 数か所の候補が上がった。

カズピは、私がブログを通して以前に知り合った 「サンフランシスコに住むゆきさん」 に会いに行ったらどう?って。

それで、サンフランシスコを旅することを決めて、「もしよかったら…」 と サンフランシスコで生きるゆきさん に連絡をした。

すぐに返事がきて、私たちは 会える っということになった!
ブログを通して知り合ったゆきさんには、肉体的に会ったことはなかったけれど、
とにかく私はゆきさんのことが好きで、いつか会えたらいいなぁと思っていた。 
だから、ほんとにほんとにほんとにすごく嬉しくて、興奮した!

サンフランシスコには4月初め、9、10日間くらいの日程で行った。
初めてアジア圏を出て、初めてアメリカ大陸に渡った旅だった。
現地では正直言うとあまり何もしていないけれど、でも毎日が楽しかった。
美術館へ行って、スーパーへ行って、タイ料理が好きになって、そして行った観光地といえば、ゴールデンゲートブリッジぐらい。

軽やかに過ごすことができた。 
のんびりと、ただ自由に。
そうだな、そして、この旅はゆきさんに会いに行く旅だった。


私は、この旅の後には 英語でもっと表現できるようになるべきだ! と強く感じ始めた。
サンフランシスコでは思いがけず、誰彼によく話しかけられた。
街を歩くとき、地図は持って歩いていたけれど、旅行者っぽくなかったのか、よく道を聞かれた(笑)
その度に、 「ここに住んでなくてわからないよ」 と答えた。

ある人(道でサックスを演奏してたおっちゃん)には、「君は何の音楽やってるの?」と言われた。
「やってないよ! 旅行中だよ (笑)」といったら、「そうか!楽しんで!」と言われた 笑

英語での会話は楽しくて、けれどももっと話せたらなぁと思うこともしばしばだった。

英語をしゃべる~ っと強く感じられ、
インターネットで探してみると、いくつかの教室が見つかった。
家の近くにも英会話教室があることが分かった。

大手の教室ではなくてこじんまりとした教室が良かった。
外国人(母国語が英語である人)が教えていて、料金は月に1万円以内が理想だった。
家から最も近い教室は、イギリス人のオーナー講師とカナダ人の講師がいるネイティブの英会話教室で、月謝も財布にやさしい、条件的にぴったりの場所だった。
さっそく連絡をして、言われた日に教室へ面談(レベルチェック)をしに行った。
レベルチェックといっても、講師たちと自己紹介を通じて話したくらいだった。

「君は上級者コースだね」 と、上級者コースに入ることになった。
2013年の初夏だった。
教室にはそれから10~11ヶ月程度通った。

辞めた理由は、 トピック が興味あるものじゃなかったこと。
質は良かったけど違和感も出てきて、辞めることにした。

*

秋、私は門司港 (北九州市) に訪れて、たまたま入ったカフェの横にあった雑貨屋に入った。
門司港駅に隣接する通りに面する、古い、味のあるビルに入っているお店だった。
モルタルっぽいつくりのビルっていうのかな.. 

あとで知ったけど、 新海運ビル っていうところで、昔は海運関係のオフィスビルだった建物の中に、アトリエや雑貨屋さん、飲食店などが入っているところだった。

訪れた アートスキーム(現在は スキーム として営業中)には、アクセサリーや雑貨のほか、カメラフィルムがたくさん置いてあって、私は数個のフィルムを買った。
あまり頻繁には売っていないフィルムも多くおいてあって、そのお店が好きになった。

二回目にそのお店を訪れたときに、フィルムを選んでいたら店員の人に話しかけられて、
「フィルムカメラのサークルを立ち上げたんですけど、良かったら入りませんか!」 と言われた。
私は、フィルムカメラ部というのにも興味があったが、多分その女の人にも興味があって(かわいいし 笑)、その場で「あ、ぜひ」と、カメラ部に入ることを決めた。

部は、女性7人 男性2人の計9人。
部会はほぼ飲み会 (笑)


実家に帰ってきて初めてできた ” ともだち ” だった。

Monday, January 12, 2015

S先生との出会い

吾平山稜 (鹿児島 吾平)


カズピ(おともだち)に紹介してもらってある人に会った。
占い… っとは違い、セッションの中でいろんな話ができる。
そして、エネルギー注入してくれるような…

そういうの(今もよくわかってないけど、でもとにかくすき) 笑


かれこれ、3年程前にセッションをしたのだけれど、その当時もよくわからないままとにかく行ってみた。
カズピ に予約をお願いし、指定の時間、指定の場所に行った。

一番きつい時期だったので、どんなことを言われるのかと若干びくびくしていた。

どういう風にセッションが始まったかもわすれたけど、
とにかく指定の場所に行くと、先生が車でビューンときて、すぐに私を見つけてくれて、
それで、一緒に先生の自宅へ向かった。

どうぞ~ と通されたところは静かで、空気がきれいで、とにかく落ち着くところだった。
少し薄暗くて、少しひんやりしていて、気持ちが良かった。

『こうやって、会えましたから、大丈夫です。』って感じのことと、
『そうですね、初めて会った感じがしないですね。どこかで会ったんだろうな。』 っという先生。

あ、そうなんですか… と、ポ~っとくすぐったい気持ち。


どういう順序で話が始まったかは忘れたんだけど…(苦笑)
とにかく、当時の状態を話したかなぁ…

涙も出てくるし、うまく言葉も出てこなくて、つっかえながらも拙い感じでしゃべっていたら、

軽やかな感じで、「あ、いいですね!」 と言われた。
へ? っと拍子抜けした私は、「そ、そうなんですか」 と、不思議とその言葉をスッと受け止めることができた。
やはりくすぐったい気持ち (照)


「マミさんは、依存するタイプじゃない感じですね。 それ、とってもいいことです。」 っと先生はお茶を入れながら言っていた。


それを聞いて、 あ…そうかも と心あたりがあった。

とにかく私は自分自分自分で頑張るタイプだった。
というか、他人を頼るのがへたくそだし、人から “そういう意味” の助け舟は出されないタイプだった。


とにかく私はボロボロ状態だったけれど、それでもなお、 良い 感じだということが分かった。



そして、その次に 「どんな人になりたいですか?どんなふうになりたいですか?」と聞かれた。

私の答えは、ポーンポーンと跳んでいるイメージで、『身軽』 とか 『行きたい場所にすぐに行ける感じ』 とか 『すぐに行動できる感じ』とかそういうたぐいの言葉が浮かんできたのでそういうのを伝えた。

「あ、いいですね!」 とまた言われた。



むしろ、このセッションでは 『いいですね!』 としか言われなくて、 『だめです!』 なんて一言も言われなかった。
拙い言葉で以ても、すべてが自分の意の通りに伝わった初めての人だった。
このひとは、真にやさしいひとだ っと直感で分かった。


先生が言っていることもイメージとして自分の中に浮かんでくるし、心地が良い時間だったことを覚えている。
そのあとに少しのストレッチ。 ゆっくりとした簡単なもので、少しの一人の時間。


初めて尽くしで、なんか子どもみたいな気持ちだった。


先生はオーラも診てくれたみたいで(これは私は何色かはきかなかったけれど)、 「色も悪くないですよ。」 っと
最後にハグをして、お別れした。



ポワ~ ッとなりながら、地下鉄に乗って帰ったのを覚えている。



それから、私は何かあると先生に連絡をした。
現象に出会うと、先生に報告.. それは 先生、あのね みたいな感じ(笑)
先生にもう一度きちんと会うまでは、時間がかかったけれど、何とかまた会うことができて、
たくさんの人たちと一緒に体操教室を体験したりした。

先生の体操教室はすごく楽しくて、 私はリズム感ないけど思いっきり動けるの。 思いっきり飛んだり跳ねたりしている。 とにかく顔は常に笑顔なのだ。
そのあとにご飯を食べながらだったり、座ってお話をしてくれる。
その話は私の中にイメージとなって浮かんでくるのだった。

先生はしばらくの間、特に私の体力がまだ回復に至ってない間は、会うたびにチャージ(ハグ)をくれた。 



私がカナダに発つ直前、私はまたS先生に会えるのだけれど
本当に楽しみだな~!!

えいごとわたし


うみたまごのイルカ(大分 別府)


英語は好きだ

3つ上の兄が、私より早くにこども英会話教室に行き始め、
私も行くと言ったかは分からないけど、追って教室に行きはじめた。

それまでの私は 「TIME」 と書いてあるのを見て 「チメ」 と読んでた。
ローマ字読みが私の英語のすべて(笑)
なんでかよく覚えていて、兄に「タイムやし、バーカ」とバカにされたこととか。

先生はアメリカ英語を話す日本人で、その音はほんとに美しくてカッコ良かった。顔も覚えていないけれど、その先生のことはとても好きだった。
今思えば、 日本を出たい の想いは、この英会話教室も大いに手伝った気がする。
ここではない国があって、こんなにカッコいい音の言葉を話すんだ と(笑)


英語の教室にいったのは、この時期の3年間くらいと、30歳の1年程で、それ以外は行っていない。
英語が好きだという基礎が出来たのは、多分絶対この小学校3年くらいの頃だ。

*
そうだ、でも最初に外国人に触れたのは、幼稚園の頃。
カトリック系の幼稚園だったのもあって、神父さま(とよんでいたが、園長先生)が外国人だった。
お鼻が大きくて、穏やかで優しい神父さまで、ニコニコしてる人だった。
自分が小さいこともあったけれど、ものすごく大きな人と認識していた(笑)。

*

中学英語はスイスイで、高校英語から英語が嫌いになった。
なんでか全く頭に入ってこなくなった。その後の大学の英語の授業でも英語反抗期は続いていた。
けれども、英語願望は常にあった。

変化があったのは多分、大学院くらいから。

英語をしゃべる環境が生まれた。
インターネットで、チャットフレンドをどうにかして探して会話してみたり。
最初は、思うように喋れず、自分でも何を言ったかわからないうちに相手を怒らせたりした。また、ある人は私がセックスフレンドを探していると勘違いし、卑猥方面へ走って行っていた(彼はその後謝り、そして連絡をすることはなくなった)。
チャットでの会話は、一般的な表現をわたしに教えてくれた。フランクなものから、丁寧なものまで、いろんな言い回しがある "表現の技" を盗んだ。

そうやって、英語の練習が始まった。

そして留学生との交流。
主にアフリカ人の友人たちで、みんな流暢な英語をしゃべる人たちだ。
彼らがしゃべるのは英語。私はしゃべるのは日本語。チャット(メール)ではお互い英語。
訛りのある彼らの会話が、自分の耳を鍛えるには大いに役に立った。そして彼らは私を買っていて、「マミの英語は良い」と、私は日本語担当だったのに言われていた(笑)


外国人とお付き合いもした。
相手は英語が不得意だったセネガル人と、英語はお手の物なインド人。
そして、カナダ人も。
彼氏が外国人だと英語が飛躍的に喋れるようになるよ!というのは、本当なのか実感としてなかったけれど…
英語 の感じやら感覚は掴んでいけた。
※もちろん、相手は慎重に自分の判断で選ぶし、また今度機会があれば話したい。△▲△

思えばよくやってるな(笑)


そして英会話教室に再び通い、1年ほど通ったところで都合により辞めた。
(通ったことはとっても有意義だった!)

数値化できるとよりわかりやすいので、示してみると、
私が大学3年くらいの時に初めて受けたTOEICで450点程だったのが、去年3月に受けたTOEIC(3回目)で745点になった。


よく、どうやって英語を習得したのか聞かれるけどよくわからなかった。
知り合った外国人には、「英語上手だけど、どっか行ってたの?」とよく聞かれる。
自分で理由がわからなかった。
勉強している意識があまりなかったんだと思うけど、先日母親に「あんた、英語好きやけんやろ?」と言われて気づいた。

そうか、英語がすきだからか。

こうしてまとめてみると、それなりに色々と試してみてるのかもしれないけど、「英語がすき」という礎は大きい。
それがやるべきことであるならば、すんなりと自分の中に入ってくる。
自分の中に入ってきて、自分の身となってくれる。

これは、あなたがやるべきことなんだよ っとサポートを受ける。

ちなみに、もちろんのことなのだけれど、今までに全く留学やホームステイなどの経験もない。100%国産留学ってやつだ(笑)

自分がこのグローバル時代に生まれてよかった。
だって、日本にだっていっぱい外国人がいてくれるから、こんな習得方法、普通にアリだ。


カナダへ行くと決める前のはなし 2

レイのRolleiflexで (高知 四万十川)

大学をやめる前後から実家へ戻った時期の記憶は、実はあまりない。
とにかく "逃げるように" 戻ってきたことだけは覚えてる。


帰ってきてから程なくして、何度か友人との旅に出たが、中身はあまり覚えていない。
行き先は四国だったり、石垣島だったりした。

地元に帰ってきたけれど、めっきり外に出なくなった。会う人は家族だし、居る場所は、家だった。おばあちゃんちにもよく行っていた。
おばあちゃんとの時間は、急かされることもなくて好きだった。

テレビも見まくって、海外ドラマにハマり、一日中見てることもあった(苦笑)
会う人、会う人に大学を辞めた一連の流れとか、"で、どうするの?" の話とか、
そういうのがすべて負担だったので、特に人間に会いたくない時期だったように思う。
散らかった部屋で一人悶々と過ごし、度々ベッドに潜り込んではだらだらと日々を過ごした。


でも、ふと我に返って苦しい。

帰ってからは、よく "罪悪感" を感じていた。
大学に10年行って、さんざん行った末の退学ということについて申し訳なく思っていた。親や先生に対して、そして自分にも。
私が博士課程へ進むと決めた時に、父親から『成功しなさい』と言われた。
そのことが結構頭に残っていて、当時の私は『成功しなかった』というきもちでいっぱいになった。
罪悪感は感じちゃだめだ っとまた自分に落胆したり… 負のスパイラルっていう、そういうのかな。

その後、両親がやっている会社の手伝いを始めたのだが、やはり自分はなんの自立もできていないように見えた。自分を他人と比べて、その度に落胆したりしていた。

大きな不安定と小さな安定をくりかえしていた時期だった。
感情面とか精神面で、少し良くなったように見えても、すぐにまた不安定な状態がぶり返してしまって、眠れなくなっていた日々を思い出して更に怖くなるような。


多分、心療内科とかのクリニックに行けば病名がついたかもしれないとおもってる。
でも行くっという選択はせずに、自分自身で解決する道を選んだ。
あの日 "大丈夫" と言った存在を信じた。


お仕事は慣れない経理の仕事で、私が最も苦手とする、お金についてだった。
どこへ行くも親の顔が見え隠れするので、あまり自分で自分の仕事をしてるという自覚が持てず、それで尚更自信がなくなっていった。本当は、その逆のことが起こっていたのだろうけれど。

両親の手伝いをすることが決まった時に、父親に言われたのだけれど『何年かかってもいいから自分のやりたいことを見つけないさい』 と言われた。
人生でこんなにも『疲れ果てた』っという表現がピッタリの時期がなかったし、自分が何をやりたいのかふんわりとも浮かばず、私はそんな励ましの言葉にすら素直に対応することができなかった

両親は私の帰りを喜んでいたみたいで、子ども扱いされたけれど、とても頼りになった。美味しいご飯も食べて栄養もつけれたし、精神的に参ってる時に家族がいるのは心強かった。お父さんは、『自分のやりたいことをみつけなさい』といったことを今でも覚えとるんかなぁ(笑)



疲れきった一年が過ぎていった。

Sunday, January 11, 2015

カナダへ行くと決める前のはなし

幼なじみと(佐賀)


私は小さい頃に、日本を離れるんだっと当然のように思っていた。
行き先はその当時知っていた国で、アメリカ。
他にも多分フランスとかイギリスとか知ってたはずなのに、決まってアメリカだった。
なんでかわからないけど、その理由は多分、スヌーピーとかセサミストリートとか、
そしてスーパーマンとかバットマンのアメコミ系のキャラクター、
サンダーバードとか、ナイトレイダーとかの影響だと思う(笑)

とにかくアメリカってやつに憧れてた。

日本を出たかったことには、その他にも理由がある。

私は小さいころに(も?)苦しい時期があった。
自分なりに苦労を味わっていた。
いじめの対象となったことはきつい経験であった。勇気を振り絞って大人(親や先生)に助けを求めてみても、私はあまりそういう ”助け船” を差し出してもらえるタイプの人間じゃなかった。

「自分に原因が在るんじゃないの?」と言われたり、
「ホントのことなの? 思い過ごしじゃないの? 今度されたらもう一度教えて。そしたら先生がその子(上級生の子)に言ってあげるから。」
と言われて、これ以上ない程に勇気を振り絞って悩みを打ち明けたけれど、
突っぱねられてしまったなぁ と落胆し、二度と大人に相談することはなくなった。

いつか行く、ココではない場所、そしてそれはその当時アメリカだったんだけれども、
それが唯一、自分を励ましてくれた。
部屋で一人、声をこらえて泣きながら想うのは、ココではないどこかの事だった。
自分が何故ここにいるのか、何故ここにいさせられるのかがわからなかった時期で、
私の中にはいつだって日本を出たい 想いでいっぱいだった。


自分が自由になった時に、私は日本を出て海外で暮らしてみるんだと思っていた。


けれども、時間とともに現実が襲ってきて、その想いは薄れてしまった。
楽しい大学生活だったし、時間もあったんだろう。けれども、親に多くを支えてもらいながらの生活の中で留学する度胸はなかった。
週に一度は山に調査へ行っていたし、多分一年の半分は山に行く生活だったから、自由に見えて自由ではなかった。

私は長く大学生活を送り、専門だった森林生態の研究に浸っていた。自分が研究者になるのか、大学の先生になるのか、よくわからないけれども自分がやってる分野をもう少し研究したい、っというのをくりかえして、いつの間にか大学生活も10年が過ぎようとしていた。

博士課程も5年目を迎えることが決定した時、私は将来についてふと考えた。
何も見えなかった。真っ暗闇で全く何をするのかがわからなかった。そして自分が何を研究しているのか、何に向かって研究をしているのかすら見えなくなっていき、毎日が不安でたまらなくなってしまった。
就職活動をしてみるも、合格通知が来ることはなく、不安な日々は続く。ついには夜が怖くなって、眠ることができなくなった。
夜明けのスズメが鳴く声とともに、少しの眠りに入る日々だった。

そんなときですら、私は親に相談することが出来なかった。
とりあえず長期間帰省して、家でゆっくりするけれどもどんどん精神状態が不安定になって、毎日泣いたり喚いたり、髪を引っ張ってブチッと抜いたり、自分の頬を思い切り叩いたり、腕を思い切り掻きむしって血が滲んだり内出血していたり。

そんなボロボロの状態で、親もわけがわからなくなり、私たちは何度も衝突をした。
私は親に理解して欲しい一方で、やはり昔の経験から親に頼ることは選べず、心を許すことができていなかった。
この時の状態は、いじめられていた頃の体験を彷彿とさせる。
でもなんとなく、その頃よりもひどかった。


『不安定な波の中にも安定を見つけてください。』 こう言う表現を聞いたのは最近のことだけれど、私はこの大不安定状態の中に、そんな一つの安定を見つけた。

確たるものではないが、それはとても安心できて、思えば私の中にいつだって在る存在だった。苦しい時はいつもその存在が救ってくれたのに、私はすっかり忘れていた。

私はその日から少しずつ、ほんの少しずつだが、良くなり始めた。
手始めに大学を辞めた。

イヌクシュクを辿れ



2月の中旬からカナダに行くと決めました。

日本に生まれて、31年目の決断でした。

ワーキングホリデーというカタチ、1年間の海外での暮らしを記録すること
自分のことを整理すること
そのために、この「イヌクシュク辿る」っというブログを作りました。


イヌクシュクとは、石を積んで人のカタチになっているモニュメントのようなもので
標識のような役割をしているそうです。


私の来るべき道を歩んで生きます。