Monday, January 12, 2015

カナダへ行くと決める前のはなし 2

レイのRolleiflexで (高知 四万十川)

大学をやめる前後から実家へ戻った時期の記憶は、実はあまりない。
とにかく "逃げるように" 戻ってきたことだけは覚えてる。


帰ってきてから程なくして、何度か友人との旅に出たが、中身はあまり覚えていない。
行き先は四国だったり、石垣島だったりした。

地元に帰ってきたけれど、めっきり外に出なくなった。会う人は家族だし、居る場所は、家だった。おばあちゃんちにもよく行っていた。
おばあちゃんとの時間は、急かされることもなくて好きだった。

テレビも見まくって、海外ドラマにハマり、一日中見てることもあった(苦笑)
会う人、会う人に大学を辞めた一連の流れとか、"で、どうするの?" の話とか、
そういうのがすべて負担だったので、特に人間に会いたくない時期だったように思う。
散らかった部屋で一人悶々と過ごし、度々ベッドに潜り込んではだらだらと日々を過ごした。


でも、ふと我に返って苦しい。

帰ってからは、よく "罪悪感" を感じていた。
大学に10年行って、さんざん行った末の退学ということについて申し訳なく思っていた。親や先生に対して、そして自分にも。
私が博士課程へ進むと決めた時に、父親から『成功しなさい』と言われた。
そのことが結構頭に残っていて、当時の私は『成功しなかった』というきもちでいっぱいになった。
罪悪感は感じちゃだめだ っとまた自分に落胆したり… 負のスパイラルっていう、そういうのかな。

その後、両親がやっている会社の手伝いを始めたのだが、やはり自分はなんの自立もできていないように見えた。自分を他人と比べて、その度に落胆したりしていた。

大きな不安定と小さな安定をくりかえしていた時期だった。
感情面とか精神面で、少し良くなったように見えても、すぐにまた不安定な状態がぶり返してしまって、眠れなくなっていた日々を思い出して更に怖くなるような。


多分、心療内科とかのクリニックに行けば病名がついたかもしれないとおもってる。
でも行くっという選択はせずに、自分自身で解決する道を選んだ。
あの日 "大丈夫" と言った存在を信じた。


お仕事は慣れない経理の仕事で、私が最も苦手とする、お金についてだった。
どこへ行くも親の顔が見え隠れするので、あまり自分で自分の仕事をしてるという自覚が持てず、それで尚更自信がなくなっていった。本当は、その逆のことが起こっていたのだろうけれど。

両親の手伝いをすることが決まった時に、父親に言われたのだけれど『何年かかってもいいから自分のやりたいことを見つけないさい』 と言われた。
人生でこんなにも『疲れ果てた』っという表現がピッタリの時期がなかったし、自分が何をやりたいのかふんわりとも浮かばず、私はそんな励ましの言葉にすら素直に対応することができなかった

両親は私の帰りを喜んでいたみたいで、子ども扱いされたけれど、とても頼りになった。美味しいご飯も食べて栄養もつけれたし、精神的に参ってる時に家族がいるのは心強かった。お父さんは、『自分のやりたいことをみつけなさい』といったことを今でも覚えとるんかなぁ(笑)



疲れきった一年が過ぎていった。

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